炉開きを終えて〜炉開きの由来について

すっかり秋が深まってまいりました。

紅葉が大変美しく、柿に栗、菊、松茸、銀杏…。
茶道の「銘」でも「唐錦」「錦秋」「龍田川」「嵯峨菊」など…。
情緒ある銘が沢山用いられ、時代が急速に進んでも、茶の湯に触れると「大切な何か」を見つけだせるような、自身はそんな気持ちでいます。

そんな中、もちろん、今年も炉開きが行われました

今回は

炉開きが「茶人のお正月」と言われる由来と、炉開きのしきたりをサクっと書かせていただきます。

炉開きの始まりと意味、亥の子餅が食べられるようになった理由について

炉開きの日は 旧暦の十月の十日をいいます。旧暦の十月は亥月といいます。今の暦では十一月です。亥月の亥の日に茶室の炉を開き、火を入れます。

亥(イノシシ)は子だくさん、そして火を消すので「火の用心」の意味が込められています。亥に子孫繁栄願って、大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖の七種の粉と新米で、「亥の子餅」が作られたとされています。ですので、現在でも炉開きでは亥の子餅が菓子に出される事が多くあります。

全然サクッとではなくなりましたので、話を炉開きに戻します。

ですが、この「亥の子餅」というのは、どうやらとんでもなく古い歴史があるようです。
陰陽五行では、亥は「水性の陰」としてとらえられるため、火に勝つとされていることから「亥の日の亥(イノシシ)は、火(火難)を免れる」という信仰が生まれたそうです。そこから亥の月の亥の日に火(暖房器具)を使い始めれば、その冬は火事にならないといわれていたとのこと。亥の重なる亥の日は「玄猪(げんちょ)と呼ばれ、唐の風習が伝り『古今要覽稿』では貞觀(859-877)以前としている。豕(中国では猪は豚のこと)形の7種の餅を作ったといわれています。宮中では平安~明治三年まで行われていたともいわれます。多産である猪(亥)にあやかり、子孫繁栄を願い大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖の7種の粉、新米で『亥の子餅』を餅を作り食べて祝ったそうです。摂津能勢の村人達より『亥の子餅』や小豆や農作物が明治3年まで京の禁裏へ献上されていたという記録があるとされており、なぜ摂津能勢村から献上されるのかは、応神天皇が皇太子の時に、猪に危難を救われた事が起源との事です。平安時代に書かれた源氏物語の若紫の段に
『その夜さり、亥の子餅参らせたり

 かかる御思いのほどなれば ことことしき さまにあらでこなたばかりに をかしげなる檜破籠などばかりを』
【その夜のこと、(館のものが)亥の子餅を御前に差し上げた。このような(葵の上の)喪中のことであるから儀式ばらず、こちら(紫の上)だけに美しい檜破籠(ひわりご)に入れられて】
平安時代は結婚するものは、三日間女性の下へ通い三日目に、三日夜餅みかよのもちいといい紅白の餅を用いるるのが慣わしであったが、葵の上の喪中でもあり

光源氏が亥の子餅を紫の上に贈ったと書かれています。下賜される亥の子餅は身分により異なる紙(大高檀紙・小高檀紙・杉原紙)で包んで、小さな角型の折敷にのせ、水引で結ぶ。(『禁中近代年中行事』は引合紙・大奉書・杉原紙)。
包みの中には、一の亥は菊としのぶ、ニの亥は紅葉としのぶ、三の亥は鴨脚イチョウとしのぶを入れる。また、鴨脚の葉に下賜する人の名を書いて、包み紙に差し挟む。餅の色は三色、 公卿は黒白品々、殿上人は赤、五位殿上人以下は白、子供は赤、地下は白、禁中の女性の上臈は黒、中臈は赤、下臈は白で。黒は黒胡麻で和える、赤は小豆の汁で色を付けるとあります以後鎌倉~江戸幕府までそれぞれ形を変えながら

続けられていったとの事。茶人は仁清の「玄猪包香合」や、裏千家八代家元一燈の「臼水指」などが知られており、現在では、猪を祀る京都 護王神社で十一月一日午後五時より亥子祭が斎行されています。亥子祭は、平安時代の宮中で行われていた年中行事「御玄猪」を再現し、「亥の子餅」をつくり振舞われています。

この炉開きに合わせてお茶壺の口を切り新茶を味わって今年も良いお茶ができたことを祝います。これを口切(くちきり)と言います。十一月の茶事は「口切の茶事」と言われるのはこの事で、茶壺の新茶をあけていただくことから、茶人のお正月と言われます。 ただし、「夏口切」もあるように、必ず繋がっているとは言えないところもあるのです。また、古代中国の周歴が旧暦十一月を冬至をふくむ「子の月」として、正月にしたからとも言われております。

茶壺の中には、その初夏に摘んだ紙の袋に入った濃茶とその周りを薄茶の葉で埋め尽されており、茶壺の入った桐箱に茶入日記というものが貼りつけられています。封印された茶壺の蓋を開け、茶臼でひいて粉末にして、茶を喫します。お茶の葉を皆で見てまた今年も新茶が飲めることを祝います。

炉開きと善哉(ぜんざい)

裏千家の炉開きでは、現在でも善哉が出される事が多くあります。

これも、亥の子餅と同じで、亥の月日が
陰であるのに対して、小豆 陽のものを
頂き、陰陽の和合を図っているとも言われています。

また、漢字でぜんざいとは『善哉』と書きます。『一休さん』で有名な一休宗純がぜんざいを最初に食べたと言われていて、一口召し上がって「よきかな(善哉)、よきかな(善哉)!」と絶賛されたことから『善哉(ぜんざい)』と呼ばれるようになったと言われていています。
「よきかな」とは、とても良いという意味なので、”とても良い=おめでたい” ということで炉開きにいただくようになったとも言われています。

そして、炉開きに善哉をいただくときは、黒文字と杉箸を1本ずつ添えて(手前に黒文字、向こうに杉箸)、お箸のようにしていただきます。これは「主菓子」という証であります。 

客銘々に出されるお菓子には正式には黒文字が添えられますが、黒文字一本では扱いづらいお菓子(善哉など)の場合は同じ長さの杉箸を添えて箸として補助の役目をさせます。

客は使い終わった黒文字は記念に頂いて帰るのが正式で、杉箸は菓子器やお膳等と一緒にお返しします。

その際に、使い終わって捨てられるべきものですので、軽く折って「ご馳走さまでございました」の証としてお返しするのが本来の習慣だったそうですが、最近は杉箸も高価なものが使用される場合もあるようですので、折らずにそのままお返しした方が良いともされています。

三部 とは

瓢(ふくべ)、織部(おりべ)、伊部(いんべ)※伊部は備前

炉開きでは、必ずではありませんが、「三部」として、道具などに取り入れられています。    なぜ「必ずしもではない」かと言いますと、密教の曼荼羅が云々って話だそうですが、実は「昭和に入ってから行われるようになった道具立ての好み」であり、もともとそういう習慣があった訳ではないとも言われているからです。

ですが、なぜ三部の道具が炉開きに用いられるか?

実は、色々ないわれがあるのですが、あまり明確にはなっていないようです。

密教の曼荼羅(まんだら)で、仏部、蓮華部、金剛部と分かれ三部構成になっている事にちなんでいるとも言われています。                            

禅の影響が強い茶道において密教の三部というのがなかなか理解しがたいところもあるのですが、自身が勝手に思ったのは、口切は道具も全て新調して迎える大変格の高い行事ですので、祝いと密教が重なって取り入れられたのかなとも、少し思いました。

最後になりましたが、炉開き当日用いられたお道具の一部を書かせていただきます。

掛軸 「喫茶去」

炉縁 唐松 宗悦造 

ひさご 駒沢利斎造 

水指 備前 木村陶峰造

大棗 大菊蒔絵

茶杓 福本積應書付 銘「慶雲」けいうん 

主茶碗 黒楽

替茶碗 織部

蓋置 織部

菓子 銘「錦秋」

お道具を紹介させていただただけで「炉開きの三部」が用いられていることが、おわかりだと思います。

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まとめ

•炉開きが茶人のお正月と言われるのは、亥の月の最初の亥の日(旧暦十月十日)、茶壺に入れられていた茶をあけて、茶をいただく祝いであるため。

•炉開きで亥の子餅が出されるのは、亥に子孫繁栄、火の用心の意味が込められいる。

•裏千家では主菓子に「善哉(ぜんざい)」が出される。黒文字と杉箸でいただく。由来は一休宗純が最初にぜんざいを食べたときに「よきかな(善哉) よきかな(善哉)と言われたことから、おめでたい行事で出されるとも言われいる。

•必ずしもではないが、炉開きの道具は「三部」福部(ひさご)、織部、伊部(備前)を取り入れるのが良いとされている。

特に初心者の方にわかりやすく、サクっとまとめるとこうなりましたが、たどるとまたまた深い歴史と意味がありますね。

また、口切の茶事は、着物も五つ紋が相応しいほど、格の高い行事です。

さあ、炉開きも終えて、この一年も茶道に関われる事に感謝です。健康に気を付けて、茶道に向き合って行きたいと思います。