すっかり真夏日になりましたね。皆さまいかがお過ごしでございますか?
個人的に、文月って、好きです。
七夕。笹の葉さらさら。短冊に願い事を書きます。他にも子供の頃から好きでした。あなたは何を願いますか?
茶杓の銘でも「逢瀬」なんて、少し色っぽい粋な時候ですね。
そして…私事ですが、文月は誕生日でもあります。
さて、誕生日に
鹿背山焼 無想窯さんの茶碗を頂戴いたしました
姉からのプレゼントです。有り難いです。いくつになっても姉です。身内から優しさが届くのは、これ以上にないプレゼントです。自身も受けた優しさにお返し出来る人間になりたいと思います。
素敵な 素敵な お茶椀
(姉からのお手紙付きです)
それは、鹿背山焼 無想窯造
まあ❤︎なんて可愛いっっ❤︎
写真で観るより御本が大変可愛らしく、また落ち着きがあり、男性が造られているのにシットリとした”女らしさ”も感じます。手に取ると程よくドッシリとしており、手に収まる感覚も丁度良く、”癒し”ある大変魅力的な焼物です。
素直に嬉しいです。かなり出番が多く使えそうです。有り難く大切に使わせていただきます。
実は、この茶碗は…
平茶碗、筒茶碗とお揃いで造られていたようで、その中から左のお茶碗をいただきました★
こうやって、三点並んでいると、どれも御本が可愛らしく、しかも落ち着いていて、なんとも言えない魅力がある事が、おわかりいただけると思います。
さて、この素敵なお茶碗が造られている 鹿背山焼 無想窯とは
大変細やかに書いてくださっています。
老眼なので、辛いですが…(*´-`)
書いてある通りに読み上げさせていただきます。
鹿背山の焼物
万葉の昔からの長い歴史を育くみ、伊勢や京都とも関係の深い風雅な所として知られる鹿背山は、現在の京都府相楽郡木津町の東方に位置しています。この地は起伏に富み、また豊かな緑にも恵まれていたところから「隠れ谷」と呼ばれ、古くから五摂家のひとつでもある一条家の領地でもありました。鹿背山に窯が開かれたのは文政年間、時の公卿(くぎょう)で茶人でもあった一條忠香公が、そのお好みである煎茶のための御手窯を紹応されたのが初めであると伝えられています。
弘化から嘉永年間ごろに、鹿背山焼は最盛期を迎えました。芥川又平なる人物を中心に、築窯名人の小川久右衛門、名工と歌われた京の道仙・金三郎・玉樹園・七兵衛・為楽・松翠軒、伊万里からは清平、絵付師の酒井梅斉らを集めた頃は、多いときで二十数名による分業経営が行われていたといわれます。
鹿背山焼は、もともと磁器として発達しており、原料には遠く九州の天草砥石を用いています。作品は深みのある白磁に、呉須とコバルトによる中国風の古染付・ 祥瑞写しを施した巧みなものですが、磁器の系列とは別に、文久・元治年間ごろに奈良の赤膚(あかはだ)山工人入会窯が同地に在り、この地に産する陶土を用いた陶器作りもまた盛んであったようです。
しかし、木津川の水上交通に販路を求めていた鹿背山焼は、明治期の鉄道開通に伴い有田・瀬戸・美濃といった大産地に市場を奪われはじめました。さらには、磁器の原石を地元共有できないという最大の弱点が、原材料買い入れ経費の高騰として現れてきたことも加わり、鹿背山焼の隆盛ももはやこれまでかと思われました。
こうして「幻の窯」とまで言われた鹿背山焼でしたが、戦後になって地元西念寺の田辺前住職や陶器研究家の保田憲可氏らの調査研究が初められたことから、その歴史的全貌が次第に解明され始めました。さらに最近になって、若い陶芸屋や地元の理解協力者らによって、七十年ぶりに窯の最高が成し遂げられるに至りました。「無想窯」もこうした背景のもとに開かれた窯のひとつであります。
”魅力ある焼物”の奥には…
やはり、とっても深い歴史があったのてすね。
また、”無想窯”は、”無双窯”とも書くのでしょうか。
また
鹿背山焼 無想窯 大前芳春(ほうしゅん)さん
ホームページ等は、開設されていないようですが、ラクマで販売されているようです。
sns.nara-craft.org/?page_id=450
まとめ
久しぶりに”まとめ”で締めてみよいかと思います笑
鹿背山焼 無想窯さんの茶碗をいただいたので紹介いたしましたが、大変レアで魅力的な焼物です。
茶の湯の世界に限らず、食卓などに潤いを与えることと思います。焼物好きには、たまらないですね(^^)♪
鹿背山焼のご紹介を見つけましたので、URL記載させていただきます。
http://kaseyamayaki.net/
今日は「七夕の朝」
短冊に書いたお願い事が
叶いますように…