堺をたずねて①〜茶の始まりと「堺」

「堺」を、たずねてまいりました。

正式に言いますと「素晴らしいお仲間にご企画いただき連れて行っていただきました」

このカテゴリーは「自身の茶の湯つぶやき」ですので、私事も少しつぶやかせていただきますと、娘の高校の時の父母会茶道部のお仲間で、自身は現在ではお会い出来る事が貴重になってしまいましたが、自身もお誘いいただきご一緒に勉強させていただき本当にありがたいです。

茶道に関われる事で素晴らしい方々と沢山の出会いがあり、深く感謝しております。

茶の湯を発展させた「堺

「さかい利晶の杜」「千利休屋敷跡」「南宗寺」を見学してまいりました。

さかい利晶の杜  http://www.sakai-rishonomori.com/shisetsu/sennorikyuyashikiato/

千利休屋敷跡(さかい利晶の杜HP内) http://www.sakai-rishonomori.com/shisetsu/sennorikyuyashikiato/

南宗寺 https://www.sakai-tcb.or.jp/spot/detail/121

まず驚きましたのは、地元ボランティアの方々が付きっ切りでご案内ご説明をしてくださるのです。「堺の町を愛している」「堺の歴史、堺と言う素晴らしい町を伝えたい」と純粋な想いでご案内いただき、頭が下がります。

京都だけでなく「堺」に行かないと勿体ないです。

さて、今回は、

もっと皆さまにも、ぜひ「堺」に足をいただきたく、茶の湯と堺の関係を、サクッと書いて行きたいと思います。

茶の湯の始まり

歴史と言うのは明確でないところや、解釈の仕方などもありますので、おそらく共通されて伝わっている事を書きたいと思います。

茶が日本に入ってきたのは平安時代。

最澄や空海が中国に渡り、帰国する際に唐代の茶を持ち帰ったのですが、「薬」にすぎなかったとの事。

鎌倉時代にも、栄西が宋代の茶を持ち帰っていますが、こちらも「薬」にすぎなかったとの事。栄西は《喫茶養生記》という本を書いています。

室町時代になると、金閣寺を立てた足利義満や銀閣寺を立てた足利義政の時代に、中国渡来の美術を愛玩する唐物趣味の会所の茶が誕生するが、精神性が存じ上げる事はなかったそうです。

八代将軍義政の時代に登場した村田珠光は、唐物道具ばかりではなく、和物を合わせて使用する草庵茶の湯を考案し、四畳半茶室も作り出し、精神的な茶の世界を考え出したのでした。この精神を受け継いでのが、武野紹鷗であり、さらに哲学的な思考性、美の世界を見極める神秘性を加えて草庵茶の湯を、わび茶道として大成したのが千利休だと言われています。

「堺」が茶の湯を発展させるキッカケ

村田珠光の精神を受け継いだ武野紹鷗は、大和国吉野郡で生まれですが、三好氏との庇護で、和泉国の堺の舳松村(へのまつむら)に定住し、皮屋を営むようになります。若き頃から学問を好み、三条西実隆に師事し和歌を教えられます。朝廷に献金を行なったこともあるそうです。

紹鷗は「良い和歌を詠むにおいて大切なことは、稽古と創意工夫」と教わり、茶道にも取り入れていくことになったとの事です。

その後、茶道は武野紹鷗からは千利休に伝えられる事になりますが、堺の会合衆のかかで、とりわけ“納屋衆”といわれた有力商人10人が力を持っていました。これら商人の中には、千利休、今井宗久、津田宗及、山上宗二など茶人と言われた人たちが居りました。

茶道盛行の基を作ったとされています。

千利休は独自の美意識ともてなしの心を理念として「茶の湯」の文化を大成し、道具、茶室、料理などを徹底して「侘び」の思想を貫き、創意工夫を凝らして貴賎の別を越えた超俗の世界、封鎖空間を作り出しました。宗教的な平等空間と中世・堺における自由経済競争における平等の思想を具体化したもので、日本人独特の武士道的価値観をうまく取り入れながら発想された「侘び」「寂び」の理念としてでだけではなく、日本の生活文化に基づく「もてなしの文化」という独自の「茶の湯」の文化を見出したのだそうです。

本来の「もてなし」とは、応接、礼儀作法、料理、酒、お茶と豪華な宴会(茶事)のもてなしを基本としていましたが、応仁・文明の乱、戦国時代など、下克上の無秩序の世の中にあっては、そのような接待宴会が成立しなくなり、その一式を凝縮した形で最後のお茶席だけを独立させ、人間不信の時代に人間相互の信頼関係の回復と新たな人間関係の形成を目指した作法が創造されたそうです。

家の造りや造作、作法を徹底して凝縮し、亭主が客の目の前で全てを公開しながら濃い茶をたて、薬物混入などの疑いを払う儀式とされる「廻し飲み」にてもてなし、信頼感の漂う人間関係の形成を目指しました。これが濃茶席の始まりです。茶室、その空間は身分を離れ主客対等で安全が保証された聖なる空間として位置づけていたとされています。

千利休は。織田信長、豊臣秀吉に茶頭して仕え茶の湯天下一の名人と言われました。一五八五(天正十三)年に、正親町天皇に茶を献じた際に居士号の「利休」を勅賜され、一五八七(天正十五)年、秀吉が催した前代未聞といわれる大規模の北野大茶会を主宰しました。

桃山時代の一大傑物として豊臣秀吉から三千石の知行を受けましたが、大徳寺に寄進した山門(金毛閣)に自像を安置したと言われることや、豊臣秀吉との茶の精神的な違い、その他の理由が重なり、秀吉の怒りに触れて切腹を命じられることになりました。一五九一(天正十九)年二月二十八日に堺で自刃し、七十年の生涯を終えました。 

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まとめ

•茶の始まりは平安時代、最澄や空海が中国から唐代の茶を持ち帰ったことからですが、「薬」にすぎなかった。

•村田珠光により、唐物道具だけでなく和物を併せて使用する「草庵茶の湯」が考案され、我儘と我執とを戒めた精神的な茶の世界を考えだした。

•村田珠光の精神を受け継いだ武野紹鷗は、大和国吉野群に生まれるが、三好氏の庇護を受け堺で皮屋を営み、南宗寺で禅の修行をし、千利休に茶の湯の精神を受け継ぐと共に、茶の湯の大成に導いていく。

•武野紹鷗の弟子である千利休は、堺の納屋衆田中与兵衞の子として生まれ、正親町天皇より許され千性を名乗り、珠光、紹鷗の流れをくみ、茶の湯の道としての大成する。千利休も武野紹鷗と同じく、南宗寺で禅の修行をする。織田信長、豊臣秀吉に茶頭して仕え茶の湯天下一の名人と言われましたが、秀吉との茶の湯の精神の違いや、利休の他の行動などにより秀吉の怒りにふれ切腹を命じられ、堺で自刃し七十年の生涯を終えた。

「茶の湯と堺の関係」のはじまりだけをサクっと書かせていただきましたが、もちろんまだまだ堺の歴史は深いです。

長過ぎる文章では読んでいただける方にもキツイ思いをさせてしまいますので、今回はこれで一旦終わりにします。

次回は、南宗寺について、書かせていただきます!