堺をたずねて②〜南宗寺と茶の関係

前回は、なぜ茶の湯と堺が関係あるのか?からたどりまして、「茶の湯はじまりと堺」について書かせていただきましたが、堺の南宗寺はとっても茶の湯と深い関係があります。 

「南宗寺」とは 

臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺です。一五二六 (大永六)年、京都大徳寺の住職古嶽宗旦が、堺の一小院を南宗庵と改称したのが始まりと言われているそうです。宗亘はこの庵を法嗣の伝案宗器に継がせたが、宗器が早世したため、もうひとりの法嗣だった大林宗套が南宗庵三代目となりました。

畿内随一の実力者に上り詰めた河内飯盛山城の主・三好長慶は大林和尚に深く帰依していたと言われています。非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔う為、一五五七年(弘治三)年、南宗庵を移転し、大林宗套に開山を依頼して、南宗寺を創建しました。創建当時は堺市宿院町付近にあったと伝えられています。

南宗寺が落成したのは、宗套の死後、笑嶺宗訴が二代目の住持を務めていた時代で、山号の龍興山を名付けたのも宗訢だとの事です。

一五七四(天正二)年の松永久秀の兵火で焼け、三好之長を祀っていた三好神廟から八寸の黄金像が略奪され、さらに一六一五(慶長二十)年の大阪夏の陣では堺の市街とともに焼失しましたが、その後、当時の住職であった沢庵宗彭によって、一六一九(元和五)年、現在の場所に再建されました。

現存する仏殿、山門などは沢庵の没後、十七世紀半ばに整備されたものだとの事です。大平洋戦争の空襲で一部の建物を失いましたが、境内は江戸時代の禅宗寺院の雰囲気が残されています。

大阪冬の陣において、徳川家康が後藤基次に槍で刺されて落命したという伝説もあり、密かに家康をお祀りしたとされています。

「堺の南宗寺を知らずして茶道を論ずることは出来ない」と言われる理由について

前回も書かせていただきましたが、武野紹鷗と千利休、多くの堺の茶人が禅の修行をした寺と伝えられています。

塔内は、利休好みの茶室[実相庵]や、遺愛の手水鉢、椿の井戸(利休屋敷で使われた井筒)、紹鷗遺愛の六地蔵石燈篭が残されています。

千利休一門の供養塔には中央には利休居士の塔、右に表千家、左に裏千家、手前右に武者小路千家の塔が立っています。隣には武野紹鷗の供養塔があり、方丈の横には、津田一門、半井家一門の墓もあります。

さらに、大阪夏の陣で討ち死した徳川家康の墓、室町時代の連歌師、堺古今伝授と称した牡丹花肖柏の墓、三好一族(元長、長慶、義賢、十河一存)の供養塔があります。三好一族は織田信長よりも二十数年前に堺を拠点に畿内など十三カ国を治め天下統一をし、堺の街は三好一族よって繁栄をもたられていました。

茶というよりお墓の紹介になってきたので、話の方向を変えます。笑

塔内の方丈前の枯山水庭園は、仏殿等が建築された江戸時代初期と考えられているそうで、前面に広く白砂を敷き小高くなっている地形を利用して枯滝を組み、そこから小石により表現された枯流れを右手の方向に流されておられます。上流部に架けた石橋と枯滝、中央部にある横石の石組も素晴らしく、平庭枯山水形式の庭と石組造形を組み合わせて構成された本当に美しい庭園にされています。

仏殿は禅宗建築の技法を用いた府下では唯一の仏殿建築で、内部の天井には「八方睨龍(はっぽうにらみりゅう)」が描かれています。山門は二階建てで上層に手すりのついた縁がまわる楼門形式の門で、垂木を扇状に並べる技法は禅宗建築の技法のひとつだそうです。素晴らしいですね。

唐門は柱間をつなぐ梁に彫られた模様や、柱の先に突き出た木鼻という彫物などが、仏殿や山門と同様のかたちをしていることから、同じ時期に建てられた建物と考えられるようで、徳川家康が後藤又兵衛の刃に倒れ、南宗寺に祀られたという伝説もあるようです。

南宗寺は、現在でも茶道に大変関係が深く、毎年二月下旬には、千利休を偲ぶ茶会である「利休忌」が催されており、毎年十月の堺まつりでは表千家、裏千家、武者小路千家の三千家一同にお茶会が催されます。※以上、【ものの始まりなんでも堺 】参照

堺の住民ボランティアの方の街を愛して発信されている姿がとても印象的でした。京都に行く方は多いと思いますが、ぜひ堺の街にも、そして南宗寺にも足を運んでいただきたいですね。

禅と茶道

村田珠光は、大徳寺の一休宗純和尚に禅を学び、わび茶精神をつくりました。武野紹鷗は大林宗套に参禅し一閑居士号を受け、晩年大黒庵王となっている。千利休も大林宗套和尚及び第二世笑嶺宗訴和尚に参禅、わび茶を大成させました。「茶禅一味」精神の基盤は確立されていきました※南宗寺パンフレット参照

平安時代に、薬として持ち帰父帰られた茶は、禅の学びにより、村田珠光から武野紹鷗、千利休により精神性のあるわび茶道として大成され、政治にも深く関係しています。

また、茶の湯と政治のつながりは江戸時代にはいり政治の一環として必要性がなくなり、繋がりが離れたようです。またそれまでは男性の嗜みとされていた茶道は、江戸時代中期から女性が嗜むようになったのではないかと言われています。


まとめ

何度も書いておりますが、南宗寺にて武野紹鷗と千利休が禅を学んだとされていること、また武野紹鷗供養塔や千利休一門の供養塔、利休好みの茶室「実相庵」があり、茶の湯と関わりが深く、「南宗寺を知らずして、茶道を論じる事は出来ない」と言われています。

また、旧石器時代より人が住み始めたと言われている堺の街と茶の湯の関係は、京都などに比べてわかりにくいところがあるものの、足を運んでみれば(※自身もお誘いいただいた身分ですが)、大変奥が深くて面白いです。一度ではなかなか理解出来ないですので、また足を運びたいと思います。

堺は、とってもいい街ですね。最近では外国の方の見学も多くなっていると、現地ボランティアの方がおっしゃっていました。

また、刃物も有名な堺ですが「堺刃物ミュージアム」もあります。茶の湯だけではなく、堺の街の歴史は本当に素晴らしいのですね。

茶を発展させた堺は、これからも住民の皆さまに愛され、ますます発信してくださる事だと思います。

南宗寺

所在地

大阪府堺市堺区南旅篭町東3丁1-2 

Tel 072-232-1654

アクセス

阪堺線「御陵前駅」下車

料金

拝観料:大人400円、中人300円、小人200円

営業時間

拝観時間:9:00~16:00

駐車場

30台(無料)